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12月26日

第2日 品川~平和島(6.8km)

さて、今日は東海道完歩2日目。品川駅からスタートします。

前回は到着しなかった品川宿を通りますので、いくつか勉強しましょう。

東海道でーたふぁいる2 『品川宿』

 

品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。

慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、京急本線の北品川駅から青物横丁駅周辺にかけて広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされた。

古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中等)の舞台となっており、他の宿場がそうであったように岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わっていたことが覗われる。1772年、幕府は飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加。1844年1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1,348人の飯盛女を検挙している。その後も遊廓としての賑わいは、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いた。

 

東海道でーたふぁいる3 『飯盛女』

 

飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼である。

その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。

また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている。

①本日のスタートは品川駅。

高輪プリンスが見えます。

さて、いよいよ品川駅をスタート。大通りなので『東海道』って感じは全然しませんね。

しばらくのんびり歩くと、のぼりがたくさん見えてきました。よく見ると『品達』と書いてあります。横浜のラーメン博物館と同じく有名ラーメン屋や丼屋で構成される建物(というかゾーン?)です。

ラーメン博物館に比べて外から見やすくて入りやすいイメージですね~。

 

品達を通過してしばらく歩くと『②八ツ山橋』に到着。写真の道の右側を行くと『新八ツ山橋』があり、ここは箱根駅伝で1区の勝負所になってます。

旧東海道はここから左の脇道にそれて、品川宿に向かいます。

②品達。ラーメン店、丼屋などがたくさんあります。

八ツ山橋。右の道を行くと新八ツ山橋

八ツ山橋からわき道にそれると、それまでの都会的な雰囲気から地方の町のような雰囲気(写真④)に変わります。ただ、いたるところに『品川宿』の名残(写真⑤)が残されていて、町を挙げて保存に力を入れているんだな~と思いました。

実際に行って思ったのは、宿場町と一言で言っても、実は結構規模の大きい町らしいということです。

 

しばらくいくと品川宿の本陣跡(現・聖蹟公園)に到着。説明書き(写真⑥)が見られます。ちなみにこの品川宿は説明書きが随所に見られ、あちこちで立ち止まって説明を読んでいました。

ちなみに、これから東海道を進んでいくにあたり、本陣は欠かせない用語なので、ちょっとしておきましょう。

東海道でーたふぁいる4 『本陣』

 

本陣は、 江戸時代以降の宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣があった。

本陣の由来については、南北朝時代や戦国時代に遡らせる説もあるが、明確なものとしては、寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛の際に宿泊予定の邸宅の主人を本陣役・本陣職に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代導入とともに制度化された。

本陣は、行程の都合などを勘案して指定された。そのため、宿泊に応じられる本陣のほか、小休止などに使われる原則として宿泊はしない本陣が指定されることもあった。宿場町であっても、前後の宿間距離が短い場合などには、本陣が置かれない場合もあった。

また、その街道筋を使う大名家などが懇意としている有力者の家を独自に指定することや(たとえば水戸街道・小金宿では、本陣は大塚家が指定されていたが、水戸藩は独自に日暮家を本陣として指定している)、宿泊する大名が多い場合には複数の本陣が指定されることがあった(たとえば水戸街道・土浦宿では、山口家と大塚家が本陣として指定されていた)。

本陣には宿泊者から謝礼が支払われたが、それは対価ではなくあくまでも謝礼であり、必ずしも対価として十分なものとは言えなかったとされる。そのため、本陣の指定に伴い、そこの主人には苗字帯刀、門や玄関、上段の間を設けることができるなどの特権が認められた。一方で、それらを名誉なこととして受け止め歓迎する向きもあったものの、出費がかさんだことで没落する家もあった。特に江戸時代後期になると、藩財政の悪化に伴う謝礼の減額や本陣である問屋や庄屋としての家業(商業や農業など)の不振による経営難によって破綻する例もあった(もちろん、没落の理由はさまざまであり、本陣としての負担のみが原因ではなかったが)。そのため、時期によって本陣が指定変えされたケースも少なくない。

文久の改革以後、参勤交代の形骸化が進み、明治維新によって参勤交代が行われなくなると本陣は有名無実となり、明治3年(1870年)に明治政府より本陣名目の廃止が通達されて制度としての本陣は消滅した。

東海道でーたふぁいる5 『鈴ヶ森刑場跡』

 

鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)は、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場。江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった。

元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。

 

1651年(慶安4年)開設される。1695年(元禄8年)測量された検地では、間口40間(74メートル)、奥行9間(16.2メートル)、であったという。1871年(明治4年)閉鎖される。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。

当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。

最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている[2]。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒(白子屋お熊)といった人物がここで処刑された

さて、品川宿をてくてく進みます。

元宿場町ということもあるんでしょうが、この通りは古い店が多いですね。お菓子屋などが多かったと思いますが、中には⑦の草履やのようなかなり珍しい店も見られます。

 

しばらく進むと誠一文字のひときわ目立つ説明書き⑧が!なんと、新撰組?

説明書きを読むと、ここは幕府御用宿釜屋跡というところだったらしく、新撰組が定宿とした場所とのこと。あの新選組がこの品川宿で活動していたと思うと、何だかじーんと来ますね~。

 

またしばらく進みます。長かった品川宿も終わり、再び国道1号線に合流します・・・がここでまた予想外なものが。『鈴ヶ森刑場跡』とは?

鈴ヶ森刑場はちょっと悲しげな雰囲気のある場所でしたね~。

真横を国道1号線が通ってちょっと騒然としているのに比べてギャップを感じます・・・。

この後、また脇道に入って平和島へ。本日はここでゴールになります。

⑨鈴ヶ森刑場跡

⑩鈴ヶ森刑場跡。

慰霊碑がたくさんあります。

幕府御用宿釜屋跡。誠一文字が光る。

⑥品川宿本陣跡

⑤品川宿

④品川宿

⑦宿場町跡は古い店がいっぱい。

かつての主要街道『東海道』。

その名前は電車や高速道路の名前として、現在でも残っています。

今回、実際にこの街道を歩いて、かつての旅人の気分を味わいたいと思います。

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