東海道は、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の慶長6年(1601)に、徳川幕府を開くよりも早く、江戸-京都間、江戸-大坂間の人馬と情報の往来幹線として整備され、伝馬制の制度が敷かれた。
東海道には名画やエピソードも多く、江戸後期の歌川広重に描かれた「東海道五十三次」や、十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」は、あまりにも有名である。
東海道は、海岸に沿った街道なだけに大きな川が多く、交通の障害となった。木曽川、長良川、揖斐川と、3つの大きな河川が注ぐ伊勢湾地域は、その影響が最も大きかったところで、尾張と伊勢の間には「七里の渡し」という海の道が設定された。また、山越えの難所は箱根八里。山越えの厳しさに加えて、箱根の関所が人々を震え上がらせたという。
東海道
(とうかいどう)
カテゴリー:東海道
飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼である。
その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。
また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている。
品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、京急本線の北品川駅から青物横丁駅周辺にかけて広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされた。
古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中等)の舞台となっており、他の宿場がそうであったように岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わっていたことが覗われる。1772年、幕府は飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加。1844年1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1,348人の飯盛女を検挙している。その後も遊廓としての賑わいは、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いた。
品川宿
(しながわしゅく)
カテゴリー:東海道
飯盛女
(めしもりおんな)
カテゴリー:東海道
本陣
(ほんじん)
カテゴリー:東海道
鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)は、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場。江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった。
元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。
1651年(慶安4年)開設される。1695年(元禄8年)測量された検地では、間口40間(74メートル)、奥行9間(16.2メートル)、であったという。1871年(明治4年)閉鎖される。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。
当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。
最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている[2]。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白木屋お駒(白子屋お熊)といった人物がここで処刑された
鈴ヶ森刑場跡
(すずがもりけいじょうあと)
カテゴリー:東海道
東京都の指定する伝統工芸品40品の1つ。
更紗(SARASA)は今から三千年以上前の遠い昔、インドで発祥しました。その技術は西はヨーロッパ諸国に東は中国へ伝えられ、またタイ、インドネシアへ、さらに海を越えて日本へ伝えられたといわれています。
更紗「SARASA」は、国際語として世界各国で使われています。
日本にはじめて更紗がもたらされた時期は、室町時代といわれ、ポルトガル、イスパニア、オランダのいわゆる南蛮船や紅毛船によって、インド更紗やヨーロッパ更紗が船載されたと伝えられています。
当時、日本人の衣料の材料は、ほとんどが絹や麻で、「SARASA」は、まったく知られなかった織物で、そのすばらしい素材(木綿)に対する驚きがあったものと思われます。
この更紗の魅力は、木綿に染められた五彩(臙脂(えんじ)、藍、緑、黄、茶)のカラフルな染め模様にあります。
私たちが更紗に対して、なんとなく異国情緒的なイメージをもつのは日本伝来の小紋や友禅とは異なって、原産地の風土の匂いとエキゾチックな感じがするからではないでしょうか。
江戸更紗の発祥は、江戸時代中期から末期にかけてといわれています。神田川をはじめとする東京の水は、硬水です。このため水中に含まれている鉄分が、染め上げるまでに化学反応をおこし、色が渋い色のものとなります。
そのため、江戸更紗独特の渋味が生まれ、「侘」落ちついた味わい「寂」枯れた渋味の入った色が完成します。
現在、我が国で産地を形成しているのは東京の江戸更紗だけです。
(『東京都の伝統工芸品』HPより抜粋)
江戸更紗
(えどさらさ)
カテゴリー:伝統工芸
東京都の指定する伝統工芸品40品の1つ。
定かではありませんが、江戸時代の半ば頃には既に数多くの職人がいたとされています。
当時、人口100万人を突破し、北京やロンドン、パリなど指折りのメガシティを抑えて、世界最大の都市だった江戸では、当然ですが、提灯の需要が大変多かったそうです。
そのため、江戸では文字の書き入れを主として行い、和紙の張り作業など提灯自体の制作は地方に任せ、分業を図っていたそうです。
現在もなお江戸提灯の製作に関わっている老舗は、創業150年、160年といった歴史があります。
ですので、少なくとも江戸時代の末期にはこうした江戸提灯の礎が築かれていたとものと思われます。
江戸提灯最大の特徴は文字入れにあります。
もともと地方で製作される提燈とは異なり、絵ではなく、文字や家紋を配することがメインでした。
さらに、提灯本体の作成は地方に任せていたことが多かったため、必然的にその点にとりわけ力を注ぐようになりました。
線の入れ方を工夫したり、できるだけ隙間なく大きく書すことで、遠めにも判読しやすい文字に仕上げます。ここに江戸提灯職人オリジナルの技術が詰まっています。(「客席に隙間をつくらないように…」という意図も込められているとか、いないとか…。)
江戸手描き提灯
(えどてがきちょうちん)
カテゴリー:伝統工芸
旧吉田茂邸は、明治17年に吉田茂の養父健三が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年までを過ごした邸宅です。
政界引退後も多くの政治家が「大磯参り」を行い、また、元西独首相アナデウアー氏や、当時の皇太子殿下(今上天皇)と同妃殿下などの国内外の要人が招かれました。
吉田茂没後には、大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど政治の表舞台としても利用されました。(大磯城山公園HPより抜粋)
本陣は、 江戸時代以降の宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣があった。
本陣の由来については、南北朝時代や戦国時代に遡らせる説もあるが、明確なものとしては、寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛の際に宿泊予定の邸宅の主人を本陣役・本陣職に任命したのが起源とされ、翌年の参勤交代導入とともに制度化された。
本陣は、行程の都合などを勘案して指定された。そのため、宿泊に応じられる本陣のほか、小休止などに使われる原則として宿泊はしない本陣が指定されることもあった。宿場町であっても、前後の宿間距離が短い場合などには、本陣が置かれない場合もあった。
また、その街道筋を使う大名家などが懇意としている有力者の家を独自に指定することや(たとえば水戸街道・小金宿では、本陣は大塚家が指定されていたが、水戸藩は独自に日暮家を本陣として指定している)、宿泊する大名が多い場合には複数の本陣が指定されることがあった(たとえば水戸街道・土浦宿では、山口家と大塚家が本陣として指定されていた)。
本陣には宿泊者から謝礼が支払われたが、それは対価ではなくあくまでも謝礼であり、必ずしも対価として十分なものとは言えなかったとされる。そのため、本陣の指定に伴い、そこの主人には苗字帯刀、門や玄関、上段の間を設けることができるなどの特権が認められた。一方で、それらを名誉なこととして受け止め歓迎する向きもあったものの、出費がかさんだことで没落する家もあった。特に江戸時代後期になると、藩財政の悪化に伴う謝礼の減額や本陣である問屋や庄屋としての家業(商業や農業など)の不振による経営難によって破綻する例もあった(もちろん、没落の理由はさまざまであり、本陣としての負担のみが原因ではなかったが)。そのため、時期によって本陣が指定変えされたケースも少なくない。
文久の改革以後、参勤交代の形骸化が進み、明治維新によって参勤交代が行われなくなると本陣は有名無実となり、明治3年(1870年)に明治政府より本陣名目の廃止が通達されて制度としての本陣は消滅した。
旧吉田邸
(きゅうよしだてい)
カテゴリー:施設
門松(かどまつ)とは、正月に家の門の前などに立てられる一対になった松や竹の正月飾りのこと。松飾りとも言う。古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。
神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。能舞台には背景として必ず描かれており(松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっている。
また、地域の言い伝えにより松を使わない所もある。
新年に松を家に持ち帰る習慣は平安時代に始まり、室町時代に現在のように玄関の飾りとする様式が決まったと言われる。
門松
(かどまつ)
カテゴリー:伝統工芸
小田原提灯(おだわらちょうちん)は、提灯の一種。童謡「おさるのかごや」に登場する。
東海道の宿場町であった小田原では、旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれる。
以下の特徴ゆえに、江戸時代に大人気商品となった。
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同じ直径のリング状中骨による蛇腹形状を持ち、折りたたんでの携帯がしやすかった。
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通常の提灯と異なり中骨が平たく、紙との糊代面積が大きいために剥がれにくく、雨や霧に強い。
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作業工程が簡単なため、安価であった。
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大雄山最乗寺の神木を一部材料に使い、狐狸妖怪に対して魔除けになると宣伝した。
毎年7月の第4土曜・日曜に『あかりの祭典小田原ちょうちん夏まつり』を行っている。 提灯の形を応用して、飲み終わった時畳んで小さく収納できるペットボトル『小田原ちょうちん・旅名水』を開発。
小田原提灯
(おだわらちょうちん)
カテゴリー:伝統工芸
東京都の指定する伝統工芸品40品の1つ。
鼈甲細工の歴史は大変古く正倉院宝物の中に杖や琵琶の一部分に玳瑁の甲羅が使われていることからも明らかです。江戸鼈甲が作られたのは江戸幕府が開設された頃といわれ当時は甲羅をそのまま使うなど細工も簡単でした。元禄期(1688-1704)に貼り合わせの技法が江戸に伝えられ複雑な造形ができるようになりました。
江戸鼈甲の材料は、数多い亀のうちでも特に甲羅の質が装身具や置物の材料として利用できる玳瑁の甲羅を使います。玳瑁は、赤道近くの海域に生息し大きいものは、50-60才で全長180センチメートル体重200キログラムにもなります。また、亀の背中の甲羅はかならず13枚で黒くなっている部分を斑(ふ)といいますが斑以外の透明な部分は約10%しかなく、特に珍重されています。
国際的に絶滅の恐れのある動植物の保護が叫ばれており、良質な天然鼈甲の確保が懸念されていますが、今日では、赤道近くのインドネシアやキューバでの人工増殖が行われておりその成果が期待されています。
製品はまず甲羅からの木地取り、製品の形と斑の位置を先に決めて、同じ物を2-3枚水と熱で張り合わせます。この時の湿し方と温度と圧力の加減で張り合わせの良否が決まるといわれ長年の年季と熟練がものをいうところです。最後にやすりと木賊(とくさ)で磨き上げていきます。
ネックレス、ブローチや眼鏡の枠など天然の鼈甲製装飾品には、奥行の深い光沢と肌触りがあり多くの人に愛用されています。
江戸鼈甲
(えどべっこう)
カテゴリー:伝統工芸
タイマイは赤道近くの暖かい海に生息し、大きいものは甲羅の長さが1メートル・体重が100キロまで成長します。また背中の甲羅は必ず13枚で、黒くなっている部分とアメ色になっている部分が混在し、まだら模様(いわゆるべっ甲柄)を形成しますが、アメ色の部分が多いほど珍重され、並茨布(バラフ)、中茨布、上茨布、特上茨布と色味によって呼び名が分類されます。また、アメ色だけで形成されている製品は腹甲を使用しており、白甲と呼ばれさらに貴重なものとなります。
タイマイの甲羅は成長にともない薄い層が幾重にも重なり、甲の厚みを形成しています。
これら1枚1枚の層の中には、コア(水分を通す管)があり、分厚い甲であっても共通のコアは決してありません。さらにタイマイの甲には保温力もあり、温めると自由に曲がるという特性があります。この特性はコアによることが科学的に証明されており、こうしたことからタイマイの甲(べっ甲)は、現在までのところ人工では作りえない、複雑な構造であることが証明されています。
玳瑁
(たいまい)
カテゴリー:生物
現在ワシントン条約により、1994年7月より原材料であるタイマイは輸出入禁止となっております。そのため、現在は1994年までに輸入したタイマイを業者間で売買しているのみであり、非常に希少な原料となっています。キューバなどではタンパク源としてタイマイを食べる為、その甲羅が余っているのですが、それすら買えない状況が続いています。
そのような状況の中、日本ではタイマイの養殖を沖縄で開発し始めており、将来に日差しが見えてきております。
玳瑁の輸出入禁止
(たいまいの
ゆしゅつにゅうきんし)
カテゴリー:条約
野生動植物の国際取引が乱獲を招き、種の存続が脅かされることがないよう、取引の規制を図る条約である。輸出国と輸入国が協力し、絶滅が危ぶまれる野生動植物の国際的な取引を規制することにより、これらの動植物の保護を図る(国内での移動に関して、制限は設けていない)。絶滅のおそれのある動植物の野生種を、希少性に応じて3ランクに分類、これらを条約の附属書I、IIおよびIIIに分けてリストアップし、合計約30,000種の動物を取引制限の対象としている。
また、条約により国際取引が規制されるのは動植物種の生体だけではなく、死体や剥製、毛皮・骨・牙・角・葉・根など生体の一部、およびそれらの製品も対象となる。
条約が採択された都市の名称をとって、ワシントン条約(英:Washington Convention)、または英文表記の頭文字をとってCITES(サイテス)とも呼ばれる。
ワシントン条約
(わしんとんじょうやく)
カテゴリー:条約
大磯城山公園(おおいそじょうやまこうえん)は、神奈川県大磯町に位置する神奈川県立の都市公園(風致公園)である。旧三井財閥の別荘跡地を公園として整備した。南側には旧吉田邸(整備中)がある。
公園内からは縄文時代の遺跡や、横穴墓、鎌倉古道などの文化遺産が発見されています。また、中世には小磯城が建てられていました。
1898年(明治31年)、この地が三井財閥本家の別荘地となり、中心的建築物「城山荘」や展望室「降鶴亭」、国宝の茶室「如庵」などが建てられました。
財閥解体後はほとんどの土地が三井家の手を離れ残った土地も放置されていましたが、その後、三井別荘跡地の再利用案として公園化計画が持ち上がり、県立都市公園整備工事が開始され1987年(昭和62年)に部分開園、1990年(平成2年)に神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園として正式に開園しました。
大磯城山公園
(おおいそじょうやまこうえん)
カテゴリー:施設
古くは材料を竹の棒に筒状に巻いて作った。その形が蒲(がま)の穂に似ていることから、「蒲鉾」と呼ばれるようになったとされる。この最初期の蒲鉾は現在のような海水魚ではなく、主に淡水魚のナマズを原料としていた。竹を抜き去ると現在の竹輪の形になる。後に板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、元祖の方は「蒲鉾」が脱落して単に「ちくわ」となり、板蒲鉾の方は逆に板が外れて「蒲鉾」になった[3]。平安時代の『類聚雑要抄』には藤原忠実が永久3年(1115年)に転居祝いに宴会を開いた時の串を刺したかまぼこが載っている。これを確認できる最古の文献上のかまぼこであるとして、業界団体がその数字をとって11月15日を蒲鉾の日としている[4]。
白身の魚は高価であり、蒲鉾もご馳走と考えられた。時に贈答品として用いられ、御節料理にも利用される。豊臣秀頼の大好物であったと伝えられ、本能寺での信長の最後の晩餐にも供された。なお、かまぼこが商品として販売されるようになったのは江戸時代以降とされる。
武家の結婚式では鯛が縁起物として欠かせなかったが、経済的に用意できない場合は絵や模造品を持ってこれに代えた。その一つが細工蒲鉾(飾り蒲鉾)である。これがあるのは富山県だけではないが、例えば、富山県の結婚式では巨大な鯛や鶴亀、富士山などの縁起物の蒲鉾細工が引き出物の一つとして出され、参列者は家庭で切り分けて縁者や隣近所に「お裾分け」(「お福分け」ともいう)する。結婚は社会的認知が大切だが、こうやって関係するかもしれない人々に知らせるのである。ちなみに尻尾の方は自分たちで食べる。平成以降、お裾分けの風習は少なくなっている。
蒲鉾
(かまぼこ)
カテゴリー:伝統工芸
雷おこし(かみなりおこし、雷粔籹)は、和菓子の一つ。米を蒸して餅にしたものを焙煎し、パフ状に膨らんだ「おこし種」に水飴、砂糖、ピーナッツなどを混ぜて練り固めたもの。
雷おこしの名は「雷門」を由来としており、「家を起こす」「名を起こす」をかけた縁起物として、および「雷よけのおまじない」などの謳い文句で売られた。また、乾燥させた米を「おこし米」と呼んだことから由来しているとも言われている[3]。江戸時代後期の1795年(寛政7年)、焼失した雷門の再建を機に露天商が縁起物として売り始めたのが発祥[2]。東京名物の土産物として知られる。「サクサク」とした食感が特徴。
雷おこし
(かみなりおこし)
カテゴリー:伝統工芸
リース(英: wreath)は、花や葉などで作られた装飾用の輪。特に、室内の壁やドアに飾られる装飾物として使われる。果物で作られる場合もある。特に、クリスマスに飾られる「クリスマス・リース」がその代表例である。
テーブルに置かれる場合もある。また、冠や髪飾りのように身につける場合もある。
ローマ帝国の時代はローマ人によって祭事の際の冠として身につけられた。主に女性に使われ、男性は冠を使用した。威信の象徴であり、往々にして手作りされた。花や枝、つる、月桂樹の葉などで作られ、結婚式など特別な行事の際によく使われた。健康の女神ストレニアにちなんで「ストレナエ」と呼ばれ、これがクリスマス・リース(元は北米で見られたもので、映画の影響からあちこちに広まった)につながった。
材料は常緑樹の小枝で作られることが多く、クリスマス・リースとしては、松ぼっくりや赤いリボン結びで飾られることが多い。キリスト教の家庭や教会では、クリスマスまでの数日のためにろうそく4、5本を使用した「アドベント・リース」が飾られることがある。
クリスマスリース
(くりすますりーす)
カテゴリー:伝統工芸
川崎宿(かわさきしゅく、かわさきじゅく)は、東海道五十三次の2番目の宿場である。 武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に置かれた。
東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために、1623年(元和9年)に設置された。
設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、1632年(寛永9年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となった。幕府は問屋場などへの支援を行ったものの、廃止の願いが受け入れられることはなく、さらには伝馬の負担引き上げ、地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めた。
そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした。
川崎宿維持の負担に苦しめられたのは宿の住民だけでなく、近隣の農民も助郷として負担を強いられていた。1694年(元禄7年)の制度発足当時は先に召集される定助郷8村と、定助郷でも不足な場合の大助郷30村というように分かれていたが、東海道の交通量増加で定助郷村の負担が過大となった結果、1725年(享保10年)には定助郷・大助郷の区分を廃止し、後にはさらに遠方の16村に加助郷が命ぜられている。助郷負担の見返りに出る手当は微々たるものであり、またその間は農作業にもかかれず、さらには川崎宿特有の問題として多摩川が川止めになれば何日も拘束されてしまうなど負担は重く、助郷の免除願が出されたり、出勤簿だけ書いて逃走したりと、負担回避のための行動が行われた。延享年間以降には金納する例も現れたが、支払う金銭は高額であり、依然として助郷村は苦しむこととなった。
川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっており、本陣は田中本陣・佐藤(惣左衛門)本陣・惣兵衛本陣があったが、惣兵衛本陣は江戸後期には廃業していた。ただ、度重なる災害や各藩の財政窮乏もあって幕末には本陣も衰微しており、1857年(安政4年)には、タウンゼント・ハリスが田中本陣に泊まる予定であったものの、荒廃のため万年屋へ移るということが起こっている。この万年屋は東海道から川崎大師への分岐点にあったという地の利もあって隆盛を誇り、1877年(明治10年)には和宮親子内親王も泊まるなど、本陣を衰微させるとまでいわれた繁栄を誇っていたが、1882年(明治15年)には第一京浜の工事のため姿を消した。
旅籠は72軒あり、そのうち飯盛女を置いていた「飯売り旅籠」が新宿に集中して33軒、置いていない「平旅籠」が39軒であった。旅籠1軒あたり飯盛女は2人までということとなってはいたが、実態としてはほとんど守られておらず、また取り締まりが必要なほど服装も華美になっていっていた。こうした事情もあり、平旅籠と飯売り旅籠の間にはしばしば紛争が起きたという。飯売り旅籠は、明治に入っても「貸座敷」と称して同様の営業を続けていたが、のちに南町へ移された。
川崎宿
(かわさきしゅく)
カテゴリー:東海道
神奈川県立藤野芸術の家は、「ふれあい、体験、創造」をテーマにした豊かな自然に恵まれた芸術体験施設です。
気軽に陶芸や木工、ガラス工芸等の芸術体験がで きる体験工房とファミリー・グループ・団体でもご利用できる宿泊、そしてスタジオ・ホールもあり音楽、劇、ダンス等の日帰り練習や合宿にも適しています。(藤野芸術の家HPより抜粋)
藤野芸術の家
(ふじのげいじゅつのいえ)
カテゴリー:施設

す・・・・鈴ヶ森刑場跡(すずがもりけいじょうあと)
た・・・・玳瑁(たいまい)
と・・・・東海道(とうかいどう)
ふ・・・・藤野芸術の家(ふじのげいじゅつのいえ)
ほ・・・・本陣(ほんじん)
め・・・・飯盛女(めしもりおんな)
わ・・・・ワシントン条約(わしんとんじょうやく)